一口法話

1、善き友の導き

 私は二年前京都の伝道院というところで百日間、寮に入りお説教の勉強をしてきました。そこでは四十五名の仲間ができ、いつか同窓会ができたらいいなあということを話していました。ところが去年の夏、突然の電話がかかってきました。その仲間の一人が亡くなったという電話でした。急いでみんなで連絡を回し、お通夜、お葬式に駆けつけました。

 通夜も進み法話の時間になりました。老少不定とは言うけれど、若い子どもや孫が先立つというのはやはりつらいものです。どういう話をされるのだろうと思っておりました。法話をされたのは、その友達のおじさんで、孫に先立たれたおばあさんが倒れはしないかと見守っていたという話でした。友達は京都で突然亡くなり、ご遺骨となって山口に帰ってきたのですが、おばあさんはお孫さんの遺骨を見て、「この子は先生じゃ、ナンマンダブ」とおっしゃられたということでした。私を真実の道、仏教へと導いてくれる方のことを善知識(先生)というのです。

 その帰りに私は、「私が友達のために駆けつけてあげたと思っていたけど、逆だった、友達が私のための仏縁になってくれていたんだ」と気づかされました。

 私は、友達によって命の姿を見せられたのです。「散る桜 残る桜も 散る桜」という詩がありますが、日頃はなかなかそう思えていない。私はここに居続けるだろうという前提で、損した得した、勝った負けたという目先のことだけを気にした日常をおくりがちです。しかしそうではない。先にいく人があり、残る私があるんじゃない。先にいく人があり、少し後からまたいく私があるんです。老少不定、無常の風ということをあらためて気づかされました。

 そしてまた、そんな無常の世界でも決して揺らぐことのない、お念仏の道を示してくれました。たとえ生と死で分かたれたとしても、「この子は先生じゃ、ナンマンダブ」と言って共に同じ道を歩んでいける世界があるのです。「必ず仏とするぞ」という阿弥陀様のお誓いの中を、お念仏の道を、年を重ねた者も、幼い子どもも、先にいった者も、残された者も、煩悩から離れることのできないこの私も、みながともに歩んでいけるのです。その大きなお慈悲に包まれた安らぎの道を、一日一日大切に歩ませていただきたいものです。

 2009年4月23日

 
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