一口法話

6、新たな命を歩もう

 昨年も多くの悲しいご葬儀に会いました。ご家族・ご親族の方も悲しく辛いが、参列者や僧侶にとっても辛く悲しいものがあります。 覚如(本願寺3世)上人が執持鈔に「死の縁無量なり。病にをかされて死するものあり、剣にあたりて死するものあり、水におぼれて死するものあり、火にやけて死するものあり、乃至、寝死するものあり、酒狂して死するたぐいあり」。とお示しです。当時も今日もその別れ往く姿は何ら変わりないようです。

 間違えてはいけないのは、別れ往くその姿によって人生の価値や意味が決まるのではない。まして往く先が決まろうはずがない事です。怏々として私たちの目に映る姿で、善し悪しの判断をしがちであるが全くの誤りです。良い死に方・悪い死に方があるのでは決してない。人生の長さに価値があるのでもない。意味と価値は「どのように生きてきたか?どこに帰る命か?」にあるのです。

 死に方が悪かったから「・・がたたってるから、お払いをしなさい」。「故人が迷われているのでお経をあげてもらいなさい」。などと、親切そうに忠告して下さる方がある。親切そうなこの無責任な言葉が、私達の胸にグサリと突き刺さるのである。しかし、こんな事に負けてはいけない。

 如来様の教えには、何一つとしてそのようなことをお示しではない。如来様は、「私の願い(本願)を聞き、共に新しい人生を歩もうではないか!」と、いつも南無阿弥陀仏となり至り届いて下さっているのです。「嬉しいときは喜び、悲しいときは泣けばいい。娑婆の縁つきたときは私の国(浄土)に帰ってくるのだよ」。と呼びかけられる如来様。 ともども、お念仏申し如来様と一緒に、新たな命を歩もうではありませんか。

 
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