一口法話

4. 無 責 任 な 言 葉

 昨年も多くの悲しいご葬儀に会いました。ご家族の方も悲しく辛いが、参列者や僧侶にとっても辛く悲しいいものがあります。覚如(本願寺3世)上人が執持鈔に「死の縁無量なり。病にをかされて死するものあり。火に焼けて死するあり、水におぼれて死するあり、火にやけて死するあり、乃至寝死するものあり。酒狂して死するあり」とお示しです。当時も今日もその姿は何ら変わりないようです。

 間違えてはいけないのは、別れ行くその姿によって人生の価値や意味が決まるのではないし、まして行く先が決まろうはずがない事です。怏々として私たちの目に映る姿で善し悪しを判断をしがちであるが全くの誤りです。良い死に方・悪い死に方があるのでは決してない。人生の長さに価値があるのでもない。意味と価値は「どのように生きてきたか?どこに帰る命か?」にあるのです。

 死に方が悪かったから「・・がたたってるから、お払いをしなさい」とか「個人が迷われてるのでお経をあげてもらいなさい」などと、親切そうに忠告して下さる方がある。私達に親切そうな方の無責任な言葉が胸に突き刺さるのである。

 しかしこんな事に負けてはいけない。如来様の教えには何一つとしてそのようなことはお示しではない。如来様は私の願い(本願)を聞き、共に新しい人生を歩もうではないか、と何時も南無阿弥陀仏となり届いて下さっています。嬉しいときは喜び、悲しいときは泣けばいい。、娑婆の縁つきたときは私の国(浄土)に帰ってくるのだよと云われる 如来様。お念仏申し如来様と共に新しい命を歩もうではありませんか。



                           平成16年4月21日

 
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